カラーひよこのブログ

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【 追悼 】安部譲二の経歴が濃すぎて笑った

塀の中の懲りない面々 (文春文庫)

昨日のツイッターのタイムラインで小説家の安部譲二さんの訃報を知りました。上の代表作『塀の中の懲りない面々』が映画化もされて時の人だった頃の安部さんと私の父親が何度か一緒に飲んだことがあって、「気さくで頭のいい人」と語っていたのを思い出します。

で、例によって Wikipedia で「安部譲二」を覗いてみたら、これがもう面白すぎて・・。最近ウイキペディアン?なんですけど、これは「濃い」というかもう壮絶過ぎて「破天荒」の一語でありんす。。ほぼ丸写し記事になるんですけど、抜粋して羅列していきましょうか。

 

 

生い立ち

祖父は造船技師で、東京帝国大学で夏目漱石正岡子規と同期だった。父の転勤に伴い、ロンドンローマで育つ。

軍属としてシンガポールに出征した父の残した本箱にあったシェイクスピア全集や漱石全集、世界文学全集、プルターク英雄伝名将言行録などを国民学校(現在の小学校)低学年にして片っ端から読破。東京都港区立麻布小学校では神童と呼ばれた。

暴力団舎弟時代

私立麻布中学校2年の時、江戸川乱歩主宰の雑誌にアブノーマルセックス小説を投稿し、乱歩から「この子は心が病んでいる」と言われ、北鎌倉の寺で写経をさせられたことがある

また、中学在学中から安藤組大幹部の阿部錦吾の舎弟となり、安藤組事務所に出入りしていたため麻布高校への内部進学が認められず、1952年には夏祭りの場で複数のテキ屋と争い、出刃包丁による傷害事件を起こしたことから、困った父親により育ったイギリスに留学させられる。

イギリス留学時代

イギリスウィンブルドンの寄宿制学校リッジウェイス・スクールに進む。同校在学中、南ロンドン地区の少年ボクシング大会のライトウェルター級選手として優勝している

入寮から4ヶ月経った時、イタリアから留学中の女子生徒と全裸で戯れていたのを舎監に発見され退寮処分を受ける。16歳のときカメラマンのアシスタントとしてオランダに渡り、ロバート・ミッチャムと売春婦を巡り殴り合いをおこなったことがある

安藤組時代

日本に戻り、慶應義塾高校に入学。同校では体育会拳闘部の主将となったが、16歳の時、本格的に暴力団構成員となった上、早稲田大学の学生たち16人に喧嘩を挑まれて3人で叩きのめしたことが問題となり、「はなはだしく塾の名誉を汚した」との理由で1955年春に除籍処分を受けた。慶應義塾高等学校除籍後は神戸市立須磨高等学校逗子開成高等学校など6つの高等学校を転々とし、安藤組組員だった時期に保善高校定時制課程に入学した。中央大学法学部通信教育課程中退。

この間、18歳の時、横浜市伊勢佐木町へ債権の取り立てに行き、不良外人のブローカーと争い、初めて銃で撃たれる経験をする19歳の時には横浜で不良外人のもとへ借金の取り立てに行ったところ、用心棒から殺されそうになり、反撃して相手の拳銃と車を奪い逃走。このため強盗殺人未遂と銃刀剣法違反で逮捕され、少年院から大津刑務所に身柄を移され、1審で懲役7年の実刑判決を受けたが、接見に来た今日出海らの勧めで控訴。控訴審の弁護人の働きにより緊急避難が認められ、強盗殺人未遂から窃盗罪・遺失物取得罪・銃刀剣法違反に罪名変更され、懲役2年6月、保護観察付執行猶予5年の有罪判決を受ける。以後、「幻の鉄」の二つ名を持つ中国道の大親分のもとに身柄を預けられ、大親分の一家を守ると共に、大親分の娘と恋仲になった、という

また、若い時期はブラディー・ナオのリングネームで地下ボクシング活動もしており、海外を転戦していた時期もあった(世界王者・サンディ・サドラーの来日時のスパーリングパートナーもつとめたという)。ハンブルクでは悪役プロレスラーとしてリングに登場し、力道山から「いつでも安藤組に頼みに行くから、ヤクザ辞めてレスリングやれ」と勧められたこともある

日本航空時代

1959年に22歳で保善高校定時制を卒業。この後、神田のYMCAのホテル学校に入学。1961年1月に23歳で日本航空に入社。客室乗務員として国内線や国際線に乗務する。スチュワードからパーサーまで出世するが、理不尽な要求をする乗客とトラブルになり殴ってしまったことをきっかけに、前科3犯(当時)で執行猶予中であることや暴力団組員であることが露見し、1965年1月に退社に追い込まれた。

日本航空のパーサー時代は勤務態度は真面目な反面、感情的になる事も多く、同僚の彼女をぶん取って交際したり、横柄な支店長を殴ったり、乗客を投げ飛ばしたこともあったと言われている。 

小金井一家時代

1964年に安藤組が解散し、日本航空を退社した後は、新宿の暴力団の小金井一家ヘッドハンティングされる。同時にキックボクシング中継の解説者、ライブハウス経営、プロモーター、レストラン経営、競馬予想屋などの職を転々とした。

特に1960年代後半から1970年代にかけて青山でジャズクラブ「ロブロイ」を経営していた時期は本店を当時の妻の遠藤瓔子に任せ、赤坂と六本木と三田の支店をそれぞれ愛人に任せ、白いキャデラック・フリートウッドを乗り回し、ドーベルマンを飼い、東京都大田区鵜の木の敷地700坪の豪邸に住むほどの勢いがあったこの当時、「ロブロイ」でピアノを弾いていたのが当時高校生だった矢野顕子で、後に遠藤瓔子が当時を回想して書いた「青山『ロブロイ』物語」はテレビドラマにもなった。

1966年から刑務所で服役。1974年9月から半年間、ボリビア政府軍の砲艇の航海長として革命軍の村を掃射する任務にあたったこともあるという。また、1975年には南ベトナム政府軍御用達のフランスメタンフェタミン25キログラム缶を安価に入手すべく、陥落直前のサイゴンに潜り込んだものの、一度は1500万円で購入したメタンフェタミンを群集に争奪され、命からがら脱出したこともあるという

1975年に拳銃不法所持や麻薬法違反で実刑判決を受け、同年秋から府中刑務所で4年間服役。府中刑務所収監中に知り合った囚人の中に赤軍派(後に日本赤軍)活動家・城崎勉がおり、安部の著作によると、ダッカ日航機ハイジャック事件が起きる直前、(既に獄外の日本赤軍と連絡を取り合っていた)城崎にオルグされかけたことがあったという。 

作家として

1983年から小説を書き始めたが、過去の犯罪歴ゆえに著書を出してくれる出版社が見つからず、不遇をかこつ。1984年山本夏彦に文才を見出され、雑誌『室内』に『府中木工場の面々』と題した文章の連載を開始。

1987年、刑務所服役中の体験を書いた この連載がまとめられ、『塀の中の懲りない面々』として文藝春秋より出版される。『塀の中の懲りない面々』はベストセラーとなり映画化され、以後人気作家としての地位を築く(日本で刑務所のことを「塀の中」と表現するようになったのは、この著作の影響である)。

交友関係他

元総理大臣の橋本龍太郎とは麻布中学校時代の同級生。

三島由紀夫とは親交があり、三島にボクシングジムを紹介するなどした。また当時の安部の半生を三島が小説にしたのが、田宮二郎主演で映画化もされた『複雑な彼である。この話の主人公の名前「宮城譲二」は、その後安部が作家デビューするにあたりペンネームにもなった。

同学年の梅宮辰夫とは「辰ちゃん」「譲二」と呼び合う仲である。大の岡田奈々ファンとして知られ、自身が原作の映画作品に出演させている
ヤクザ映画の「仁義なき戦い」の第四部仁義なき戦い 頂上作戦」の劇中、第二次広島抗争で、全国からケンカの助っ人が広島に集結したくだりがあるが、これに派遣された一人が現役渡世時代の安部である。安部にとってもこれは輝く実績の一つだが、劇中にもあるように実際は全面戦争にはならず、安部は暇で野球に興じていたという。長嶋茂雄天覧試合サヨナラホームランも広島の親分宅で見たという。ある日、商店街の野球大会に参加して、飛ばない軟式ボール広島市民球場の外野スタンドにたたき込んだら、商店街の会長が「親分にもよく話してやるから、広島カープの入団テストを受けてみなさい」と言われたという
執筆にはパソコンを使用し、ときおり2ちゃんねるウィキペディアを見ていることを明らかにしている。また、選挙ではいつも日本共産党に投票していたが、2009年第45回衆議院議員総選挙では民主党に投票し、後悔しているとも述べている

・・・

「ホンマかいな」という、マンガみたいな展開の人生ですな。。マンガと言えば、漫画原作もやっていた安部さん。『RAINBOWー二舎六房の七人ー』という作品が傑作でした。

RAINBOW(1) (ヤングサンデーコミックス)

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合掌。

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