カラーひよこのブログ

週休5日のセミリタイア暮らし 🍵 🐤


私の職歴【 セミリタイアに到るまで 】

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今日は #しごとの思い出 というお題で、今までにやった仕事の遍歴をまとめてみます。アラフォーのおっさんですが、先月まで3年ほど勤めた正社員経験以外に定職に就いたことがないです。我ながらどうやって生きてきたんだろう・・今までにやってきた主なアルバイトを時系列順に並べて振り返ってみたい。

私のバイト歴

✅ ホームセンター

高校の時、近所のホームセンターで生まれて初めてのアルバイト。時給は 520 円で日払いだった。稼いだお金でミニコンポとか原付バイクを買いました。なにぶんキラキラの 10 代だったし、今の仕事を除くと今まででいちばん楽しかったかもしれない(思い出効果もあるが)。

✅ モニター調査

っていうんだろうか。依頼が入ったら会場へ出向いてアンケートに答えたり、テレビの新番組を見てその感想を電話で答えたり、座談会に出たりして謝礼をもらうバイト。これも高校の頃で割が良かった。そういえば新宿駅周辺にこんなアンケート調査員が張っていてわざと捕まって謝礼をもらったりしていた。10 年くらい前にもアンケートのサイトに登録していて、よくやっていた。ファミレスの新メニューを食べてアンケートに答えたりするのとか。小一時間で 3000〜5000 円か。暇になったのでまたやろうかな・・。

✅ コンビニ店員

高校卒業して1年くらい、近所のコンビニの夜勤をしていた。時給は 1050 円だったか。途中からレジがバーコードになったり消費税が導入されたりした記憶がある。これも何だかんだ楽しかったな。若かったし。何でもかんでも取り扱う今のコンビニ業務にはついていけないだろうな。。このバイトで昼夜逆転生活になって大学を辞めてしまった。学生は夜勤のバイトはしないほうがいいです。

✅ 印刷会社のオペレーター

五反田にある大手の印刷会社で。時給は 1450 円。印刷業界にデジタルが普及してきた時期。「派遣」というものを初めて知る。上のコンビニと掛け持ちでやってたような気がする。19 のガキが月に 30 万以上稼いでウハウハだったけど、満員電車に耐えられず1年くらいで辞めてしまった。バブル時代で、400 万円の正社員の年収が残業で 600 万になってた。

✅ 工場のオペレーター

高尾にある大手電機会社で。また派遣で夜勤。誰にでもできて時給で選ぶと自然と工場の夜勤を選ぶようになった。時給は確か 1350 円。1年くらい。小金が少し貯まると辞めて引きこもり、金がなくなると働き出すという習性が・・。

✅ 電話オペレーター

「ダイヤルQ2」という、今でいう出会い系サイトの電話版みたいな事をやってる会社で。伝言ダイヤルっていうのかな。会社は儲かっていたらしい。夜勤。これは楽しかった。目黒まで通うのが面倒で辞めてしまった。

✅ フリーのグラフィックデザイナー

このままではいけないと思ったのか Macintosh のスクールに1年間通って Photoshop や Illustrator、CAD などを勉強。結局、就職も何もできなくて「カラーコーディネーター2級」「CG 検定3級」みたいなわけの分からない民間資格を取って学費と Mac のローンだけが残った。その学校の講師に紹介してもらった会社(後に倒産していた)でお手伝いしたり、ゲーム会社に就職した同期生にフリーの仕事を分けてもらったりはした。今では信じられないが、プレゼン用の資料をフォトショとイラストレーターでペロッと作るだけで 30 万とか貰ってた。マルチメディアバブルの時代。しかし「好きな事を仕事にするとキツい」という事に気付き、足を洗って再びニートに・・。

✅ データ出力の会社

「マルチメディア部」というよく分からない新設部署に配属された。ヒマなので遊んでただけだった記憶。九段下まで通うのとスーツとネクタイが嫌で辞めてしまった。

✅ 仏壇屋

成城学園前の小さな仏壇屋の店員(派遣)。こんな世界があるのかと思った。芸能人がたまに来店した。名前忘れたけど配達しに行った女優さんが超綺麗でオーラあった。この頃はまだ、行く先々で「社員にならないか」と声を掛けられていた。

✅ 生命保険会社のデータ運用

派遣で時給 1650 円くらいだったか。もちろん夜勤。コボルの SE の指示の元、大きな磁気テープを運んでコマンドを入力、何十箱ものダンボールの帳票や給与明細を印刷する仕事。人間関係で辞めてしまった。

 

✅ 工場、工場、工場

近所の工場の夜勤で働いては辞めるを繰り返して、無職と引きこもりとフリーターの中間みたいな生命体になっていた(30 歳)。最後は山梨県の某大手電機会社の工場へ。派遣で住み込み。田舎暮らしに憧れていたが、寂しいわ寒いわで全く向いていない事が分かった。八王子が都会に見えて、毎週末原付で山を超えて八王子に通っていた。

✅ 出会い系サイトのオペレーター

地元に戻り、バイト求人誌の「簡単なデータ入力のお仕事」「服装自由」「明るい雰囲気と BGM のある職場」という募集に電話。面接に行ったら出会い系サイトのサクラのバイトだった。社長「やる?」。私「はい」。本当につぶしが効かなくなっていた。ここは文字通り出会いも多く?やりたい放題で今までのバイトでいちばん楽しかったかもしれない。50 人くらいいるバイトのリーダーになって7年くらい過ごしてしまった。ダメ人間の吹き溜まりというか、周りはバンド系、DJ、役者、キャバ嬢・・等々と掛け持ちしている連中ばかりだった。服装自由。出勤時間自由。音楽聴き放題。ネット見放題。毎晩飲み会。ぬるま湯過ぎた。最後は1勤1休みたいなシフトにしていた。母や親戚に今何をしているのかと訊かれると「コンピューター関係の仕事だよ」と答えていた(生まれてすみません)。

✅ 求人広告制作会社のオペレーター

出会い系会社が潮時になり、解散と同時に放り出されると途方に暮れた。バイトに応募しても年齢ではじかれる事が多くなった。自業自得である。新聞の折り込み求人広告を作っている会社に派遣で何とか潜り込んだ。夜中にひたすら Illustrator で地図を作ったり文字校正したりする仕事。時給は 1750 円。「俺はこのままここで一生やっていこう」と考えていた矢先にリーマン・ショックが。求人クライアントが日に日に減り、終いに事業所が閉鎖。いわゆる「派遣切り」に・・。

✅ 介護・福祉の世界へ

出会い系時代の仲間の何人かが介護業界で働いていたので、自分も東京都の講習を受講して当時の「ヘルパー2級」資格を取った。最初は近所の高齢者向けデイ・サービスでバイトしてから障害者の方の訪問介護事業所2つで働き始め、最初の1年は3つ掛け持ちで年間 350 日くらい働いた(介護福祉士資格の「従事日数」条件を早く満たしたかった)。介護は最初「死んでもやりたくない仕事」の筆頭だったが、飛び込んでみたら何のことはなかった。もう10年になる。ただ、正職員として一つの施設でずっと働くよりも、いろんな現場や外出のある移動支援や重度訪問介護の非常勤を選んだ。5年くらい経った頃に今の職場に縁があって3年ほど正職員で施設の現場兼管理職をした。ハードワーク過ぎて辞めるつもりだったが、引きとめられてまた非常勤でやっている。この間に貯めたお金で家を買った(バイトなのに)。今は週に2日、泊まりの現場に出て(1泊約2万円)「しょぼいセミリタイア暮らし」をしている。

1日でバックれたバイト

参考までに筆者が1日でバックれたアルバイトを思い出してみる。正直、円満に退職した職場は少ないが、その中でも特に印象に残ってるバイトを。

✅ 警備員

20 代の頃。中の人が警察上がりの体育会系だった。研修で「将来の夢」みたいなのを大声でパフォーマンス付きで叫ばされた。昼の休憩に入るとそっと逃げ出した。

✅ 佐川急便の仕分け

二十歳くらいの時。ベルトコンベアーの流れに付いていけず。限界まで速くて息がつけない。教える役の担当がパンチパーマの兄ちゃんで圧がすごかった。工場でもベルコン系の作業はダメだったな。。

✅ チラシのポスティング

インチキをしないように監視役が見張っている。バイトは名前で呼ばれず人間扱いされなかった。

・・実際には、ここまでに挙げた数の倍くらいのアルバイトをやってきた。でもまー、その当時は嫌で嫌でしょうがなかった経験も、都合のいい「思い出補正」みたいなのが入って何だか懐かしくて愛おしいものがある。。

以上、しょぼいセミリタイア暮らしのおっさんの仕事語りでした 🐤

仕事の話ってあまり書いてないな。。

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