カラーひよこのブログ

週休5日のセミリタイア暮らし 🍵 🐤


どうで死ぬ身の一走り【 石川県七尾・西村賢太の墓前へ 】

石川県七尾市。この地にある「西光寺」というお寺。3年前に急逝した敬する私小説家、西村賢太の菩提寺である。こちらでの墓参を今夏のサウナツーリングの、サウナよりも何よりもの目的としてやって来た。

東京を出立して 12 時間、夕刻 17 時は回っていただろうか。此処かと件の墓を探し始めるも、どうやらこちらは本堂ではないというか、別のお寺だった?らしき模様。

あらためて確認したスマホの地図上に赤いピンで示されていた「藤澤清造・西村賢太の墓」は、もう少し先、山門をくぐった本堂の手前の左手にすぐと在った。

「山門をくぐった」と書いたが、その山門は昨年元日の能登半島地震により倒壊していた。

この時にその山門が建て直されていたものか、もう忘れてしまっているのだが、山門の手前にある巨大な石碑は倒れてそのままとなっていた。

こちらが倒壊前の山門と(おそらくその)石碑。震災の約1ヶ月前のこちらの記事より引用。

ノコノコと来てしまったけれど、やはりどうにも場違い過ぎるのではないかと緊張。これが地元の太宰治の墓であれば何の緊張も感慨も覚えなかった記憶であるが・・。

意を決して本堂へと歩を進める。本堂の手前、住職さんではないと思うが、咥え煙草で何かの作業をしていた男性と目が合い、軽く目礼。幸か不幸か他に人影は見当たらない。

ああ見えて根がエチケット尊重主義にできている西村さんの墓前に T シャツ姿では失礼かなと、来る途中で寄った軽井沢の日帰り温泉(サウナ)で一応、襟付きのシャツ(アロハ柄の開襟シャツ&度の入ったサングラス)に着替えてはいたが、余計に胡散臭くなっていた気がする。

お供え用にその軽井沢のコンビニで購めておいたカップ酒を片手に完全にキョドっており、不審者そのものだった。

あれか。

お花は枯れかけているように見えるが、ワンカップ、宝焼酎、カルピスソーダが台座の上一杯に供えられている。読者にはお馴染みの宝焼酎はともかく、カルピス好きだったっけと記憶を手繰ると、そう云えば確かまだ既刊五冊中の二冊しか読んでいない「日乗」シリーズの日記内でよく出てきたか。

芥川賞を獲ってブレイクしてからは金にも困らなかったろうに、虚室で毎晩(朝方)飲むのはこれ一辺倒だったというケミカル焼酎「宝」。確か 25 度の方だったな、と。

煙草の方は1日 100 本吸っていたという(それは 50 代半ばで死ぬって・・)「ラッキーストライク」を供える腹積りであったが、普段の習いでつい「メビウスの 10 ミリソフト」と口から出てしまい、コンビニを出てからハッとするも(まあ、いいか)と宝焼酎だけとなった。

最近では我が家の台所にもこれの4リッターペットボトルが常備されている。元々下戸体質だった西村さんと同じく、元来はコップ1杯のビールで顔を真っ赤にするようなアルコールに弱い筆者であったが、30 を過ぎてから家で毎日飲むようになり、気が付けばおそらく人の肝臓が耐えられる一生分を飲み干してしまっている。

そんなアレでこの頃では、度数3〜4%の薄い缶ビール2本を飲んでから、この宝焼酎のロック2杯くらいでストップするのが適量らしく、チビチビと愛飲している次第。

なんと云うか、細長くて奇妙な墓ではある。墓石に掘られている「西」「村」「賢」「太」「墓」の文字は、隣に眠る、心の師である大正・昭和初期の私小説家・藤澤清造の自筆原稿から1文字づつ拾ったとの事。清造師の墓よりも高さを少し低く作ってあるそうだ。戒名は「賢光院清心貫道居士」。

2002 年に藤澤の墓を改修する際に「生前墓」として建立。一つの台座に半ば無理矢理に2つの墓石を建てたのでこの細長スタイルになったのだろうか。

その後、昨年1月1日の能登地震で二人の墓は横倒しになってしまう。境内のお墓、灯篭のようなものにはまだ倒れたままになっているそれも多い。

藤澤・西村の墓は同年の9月にファンや関係者の支援で修復されている。

この報を聞いてからだろうか。(いつか西村賢太の墓に行ってみたい)とふとこり始めたのは。で、その七尾行きを決定付けたのは、昨年の1月に刊行された、おそらく小説作品では最後になるであろう長編『雨滴は続く』の文庫版をこの7月にようやく読み終えて、その未完の 1000 枚の「ここで絶筆かよ」と云う、それでいて個人的にはある種これ以上ない仕舞い方と、巻末に掲載された「特別原稿」に「撃たれて」しまった事であった。

今更になって気付いたが、表紙画は紛れも無くこの藤澤清造の墓である。

ちなみに読了するのに半年近くもかかっているのは、もう新作は二度と読めないので、まだ未読で入手可能な著作を(少なくとも小説作品は)あらかた読んでからの最後のお楽しみに取っておこうとの気が働いたからによる。

考えてみたら、その私小説書きの存在と個性的な人物像は知っていたものの、3年前のその訃報を耳にしてからようやく「じゃあ代表作を読んでみるか」となった(しかも図書館で)程度のにわかもニワカな出遅れファンであるけれど、この初期衝動というのか、此度該地に訪うことができたのは、このタイミングであればこそとも言える。

と云うのも、あれから一月余りで、未読の小説作品一編と数冊の随筆本、賢太マニアのブログや note 記事、匿名掲示板5ちゃんねるの文学板などを粘着ストーカー的に読み耽って、なんというのか俯瞰的に詳しくなり過ぎてしまった。

それらを一通り漁って「冷めた」「がっかりした」という事は全く無いにせよ、(物凄く失礼ながら)こんな僻地に眠るマイナー小説家の墓参に単身赴こうというエネルギーは、自分が「これだ!」と感じた絶頂の瞬間、先の初期衝動のタイミングでなければ湧かなかった事であろう。

清造と賢太の墓の後方はこの様ななだらかな丘陵状になっている。

それは、いま手元にある角川の文庫本『どうで死ぬ身の一踊り』収録の、実質商業誌デビュー作である『墓前生活』という一編で描写されている光景そのものであった。

割れ落ちた瓦や、ブロック。先の震災の爪痕がまだ生々しい。

右に見切れている、市が作ったであろうプレートには誰だかよく分からない平安貴族だか戦国武将だかの縁の寺とあるけれど、そこに藤澤の名は無い。それは生前の西村さんも、もし行政から打診されたとしても「そんな上からの押し付けがましい事はしてくれるな」と拒否した事であったそう。

震災の前年あるいは西村さんの亡くなった年には年間で約 300 人のファンが訪れたそうだが、私が此処へ来るのは最初で最後であろう。残り少ないであろう人生で一度だけは訪うておきたい「冥土の土産ツアー」の一候補地なのであった。

花を供えて水を遣るわけでもなく、線香をあげて掃苔するわけでもなく、10 秒ほど手を合わせて黙祷するも胸中には何の手向けの言葉も浮かばなかった。

なんだか、此処まで来ておいて全てが「小っ恥ずかしかった」のである。いい歳をして、根がどこまでも自意識過剰なんである。

とは言い条、この人から影響を受けてしまったのは間違いなく確かな事ではある。それはこの妙に勿体ぶった付け焼き刃の「ニセ西村調」の文体に出てしまっている(ちなみに大分以前より私がよく使っている「云う」「筈」「此処」などは椎名林檎様からの影響である)。

そう、西村さんの何に影響を受けたと言えば、あの時代がかった文体・文章の巧みさと、作品内において「最後は必ずこうなるよー!」という、お約束的な結末を導くところの氏の分身・北町貫多の下劣な人間性と行動原理、どこまでも下衆で下品下世話なその内面描写の組み合わせとのギャップ、効きまくっているエッジの鋭さに斬られ、笑わせられ、撃たれたのである。

生前に出会っていたなら、誰も見ないにせよ一応は誰でも見る事はできるどうしようもない個人ブログ上でこんなお恥ずかしい物はとてもじゃないが書けない(殴られそうで怖いし)。でも、生前に何度か催されたという紀伊国屋書店等での新刊出版記念のサイン会には足を運んでしまっていたかも。やはり、没後のこのタイミングで良かったのである。

正味で 10 数分、思い返してみるに本当に無神経で無礼極まりない墓参だったけれど、「没後弟子」の末席に押しかけで付け加えさせて頂きたい。

足早に、手前の空き地に停めておいたバイクへ戻ろうとすると、ご近所と思しきおばあちゃんが前方をヨチヨチと歩いていて、それはお寺に到着した先程にもおそらく不審な他所者としてチラチラと見られており、内心(早く通り過ぎてくれないか)との思い。

が、やはりお年寄りの歩行は想像以上にゆっくりで、追い越し様にすれ違った時に目が合うと「あ、どうも・・」などと引き攣った笑顔の挨拶の裏で(怪しい者じゃないです!)と弁解するのであった。

いったいに、何が、「あ、どうも」なのか・・。

コンビニに寄ってから、西村さんが清造の月命日に七尾に訪れた際によく通っていたというサウナへ。それにしても金の無い無名時代からよくも(失礼ながら)東京からこんな所まで毎月毎月通っていたものである。

入り口の屋根付きのひさし(変な日本語)は雪対策だろうか。このコンビニでは忘れたが、帰路の信州のサウナにあった能登復興の募金箱には僅かながらの募金をさしていただいた。七尾の該サウナのレポートは後日、また。

 

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